山下大将と武藤参謀長も、村田省蔵大使の来訪を求めているので、
1944(昭和19)年11月26日、村田大使が桜兵営を訪問します。
その前に村田大使は、朝の7時30分からラウレル大統領と会っています。
一緒に朝食をとった後、
ラウレル大統領一家が朝のミサに与る時間を待って
ゴルフをしています。
村田省蔵『比島日記』には、ラウレル大統領とゴルフをしている話がでていますが、
これは、南方生活における健康維持の他、ラウレル大統領との関係を良好にするため
大切なものだったようです。
この日は第十四方面軍司令部に行く11時30分までゴルフが盛り上がってしまい、
第十四方面軍司令部に到着したのが、12時5分でした。
35分の遅刻となったわけですが・・・。
なんと、第十四方面軍司令部から3回も電話がありました・・・。
これは、山下大将の影響だと思います。
山下大将は、ドイツ生活を経験しているので、
予め訪問先に遅刻しないのがエチケットということを
学んでいると思います。
これは堀栄三少佐の『大本営参謀の情報戦記』に戦後堀栄三さんが、
自衛官として西ドイツに駐在した時の話が参考になると思います。
山下大将は、時間になっても現れない村田大使を心配し、
副官などに、「なにか大使の身に危険があったかもしれないから電話しろ!」と
しつこく命令したのでしょう。
なお、山下大将は、プライベートでも、軍隊用語を使います。
山下家では「すぐすぐさん」と呼ばれてました。
言われたことをすぐやらないと怒るからです。
このあたりは武藤章中将とは違いますねーーー。
まあ、ラウレル大統領とゴルフしていて遅刻なのかもしれない・・・とも疑いつつも
あくまで大使の身に何かあってはいけないと、30分の遅刻lに3回も電話を入れるあたり、
細かいです。
武藤章中将がいうように、武藤章中将の1000倍は細かい人なのかもしれません。
村田大使は車を草つけてカモフラージュして第十四方面軍司令部に向かいました。
村田大使は、山下大将の出迎えを受け、武藤参謀長と西村参謀副長が隣で話をしているところを
見ながら、山下大将からの報告を受けました。
〇自分はラウレル大統領政権をどこまでも尊重するつもり。リカルテ将軍を中心とする愛国連盟も
ラウレル大統領政権と連携を希望する
〇今は国内の大同団結を急務としているため、軍においてはガナップ党とかの存在を認めることは言うまでもない。
※ラウレル大統領政権が弱体なのは知っているからこそ、ガナップ党には自分たちに協力してもらうのだという意味。軍から見たらラウレル大統領はどこにいても変わらない存在だから。
少しでも協力してくれそうなガナップ党には是非とも自分たちは助けてもらうのだ・・・という意味。
司令部での会談が終わったあとに、軍司令官官邸にて食事となりました。
この食事の場こそ、本音が出るものですねー。
「リカルテ将軍はあまりに単純すぎる」
「ラモスは御粗末でフィリピン政府の官に着かせるべき人物でない。」
などなど。
憲兵問題に入った時に、村田大使が、
「先日アキノのところにお米を貰いにきた乞食に対し、日本の憲兵が乞食の
名前と住所と職業をわざわざ聞いた」という話を笑い話としてだしました。
お米もない乞食に、四角四面に名前と住所と職業を聞く辺り、なんだか今の日本の貧困層で
起こっている日常を浮かべてしまいます。
貧困だからお米を持つ比島要人のところに来ているだけの乞食なのに、
その乞食が何者か?と目くじらを立てる日本人。
今でもそうだから変わっていないと溜息です(個人的に)。
この食事の席にいたのが、村田省蔵大使、山下大将、武藤章中将、宇都宮直賢参謀副長でした
(あと副官たち)
この食事の席で、またも、山下大将は、宇都宮直賢参謀副長に対し
「よくこの三年ばかりの間に匪賊をこんなに作ってくれたな」と皮肉を飛ばしました。
それに対し、宇都宮直賢参謀副長に変わって答えたのが村田大使でした。
曰く
「田中(静壹。陸士19期、陸大28期。田中光祐少佐参謀の父)軍司令官の在任中(1942/8/1-1943/5/18)の後半期から、日本側がフィリピンのゲリラ討伐に熱を入れるようになった。
第十四軍(当時)がそのために増援を依頼するも、陸軍中央部は耳を貸さなかったし、
日本のやり方がかえってゲリラを作った事例も多々あるし、ゲリラの中にはフィリピン政府の高官だった人も含まれている。
彼らが今米軍が再度来襲してくるという事実を前に、自分たちの立場が変わる希望をもって
勢力を拡大しているのだ」と
その通り、田中靜壹司令官後半期にゲリラ討伐をしだして、司令官自身が高熱を発して
生死を彷徨いながら日本に帰還したというのがあったので、
その後任者である黒田重徳司令官は、あえて、ゲリラ討伐をしない方針を取っていたのでした。
少しでもフィリピン人の心を掴もうと努力をしたのですが、結局どうにもならず、
山下大将の現在となったのですが。
では黒田重徳中将の立場だったら、どうすればよかったのでしょうか?
これ難問ですね・・・。
中央に増援を求めても増援はない。フィリピン人が日本に対する見方は厳しい・・・。
黒田重徳司令官の実績としては、
「独立国としてのフィリピンはどうすべきか」と調査機関を設けたり、
フィリピンが憲法を制定する際、
日本が大日本帝国憲法を手本にした憲法を制定させようと指導した際に、反対したことだと思います。
「比島人はアメリカは自分たちに善政を施してくれたと思っているし、実際はアメリカはフィリピンをさほど虐めていなかったから、アメリカ式の憲法であるべき」と。
宇都宮直賢『南十字星を望みつつ』私家版 1982年
この日の最後、村田省蔵大使は一つの提案をします。
「ラウレル大統領と武藤参謀長が出来るだけ親しくすること」
これは今後、どうなるのでしょう・・・。楽しみですね・・・。
今回は、黒田重徳司令官の写真を見出しにしてみました。
黒田重徳司令官の立場だったら、どうしたらよかったのでしょうか?
黒田重徳司令官を悪くいうのは簡単だけど。
黒田重徳司令官は、結果として和知鷹二中将など部下たちの意見が寺内寿一元帥に出されて、
それが中央に届いてはいたけれど、中央は黒田重徳司令官を放置していたのです。
黒田重徳司令官から山下大将に変わる時に、敢て米軍上陸時に何もしらない
山下大将を満洲から異動させるやり方は結果として不幸を招きました。
それで黒田重徳司令官の軍務放棄?とみられる行動をあげて、「だから後任の山下大将と
比島の日本軍将兵が苦労したのだ」でも足りないのではないかと最近思います。
司令官個人の責任だけではなく、中央部の怠慢もまた反省すべき点だと思います。
1944(昭和19)年11月26日、村田大使が桜兵営を訪問します。
その前に村田大使は、朝の7時30分からラウレル大統領と会っています。
一緒に朝食をとった後、
ラウレル大統領一家が朝のミサに与る時間を待って
ゴルフをしています。
村田省蔵『比島日記』には、ラウレル大統領とゴルフをしている話がでていますが、
これは、南方生活における健康維持の他、ラウレル大統領との関係を良好にするため
大切なものだったようです。
この日は第十四方面軍司令部に行く11時30分までゴルフが盛り上がってしまい、
第十四方面軍司令部に到着したのが、12時5分でした。
35分の遅刻となったわけですが・・・。
なんと、第十四方面軍司令部から3回も電話がありました・・・。
これは、山下大将の影響だと思います。
山下大将は、ドイツ生活を経験しているので、
予め訪問先に遅刻しないのがエチケットということを
学んでいると思います。
これは堀栄三少佐の『大本営参謀の情報戦記』に戦後堀栄三さんが、
自衛官として西ドイツに駐在した時の話が参考になると思います。
山下大将は、時間になっても現れない村田大使を心配し、
副官などに、「なにか大使の身に危険があったかもしれないから電話しろ!」と
しつこく命令したのでしょう。
なお、山下大将は、プライベートでも、軍隊用語を使います。
山下家では「すぐすぐさん」と呼ばれてました。
言われたことをすぐやらないと怒るからです。
このあたりは武藤章中将とは違いますねーーー。
まあ、ラウレル大統領とゴルフしていて遅刻なのかもしれない・・・とも疑いつつも
あくまで大使の身に何かあってはいけないと、30分の遅刻lに3回も電話を入れるあたり、
細かいです。
武藤章中将がいうように、武藤章中将の1000倍は細かい人なのかもしれません。
村田大使は車を草つけてカモフラージュして第十四方面軍司令部に向かいました。
村田大使は、山下大将の出迎えを受け、武藤参謀長と西村参謀副長が隣で話をしているところを
見ながら、山下大将からの報告を受けました。
〇自分はラウレル大統領政権をどこまでも尊重するつもり。リカルテ将軍を中心とする愛国連盟も
ラウレル大統領政権と連携を希望する
〇今は国内の大同団結を急務としているため、軍においてはガナップ党とかの存在を認めることは言うまでもない。
※ラウレル大統領政権が弱体なのは知っているからこそ、ガナップ党には自分たちに協力してもらうのだという意味。軍から見たらラウレル大統領はどこにいても変わらない存在だから。
少しでも協力してくれそうなガナップ党には是非とも自分たちは助けてもらうのだ・・・という意味。
司令部での会談が終わったあとに、軍司令官官邸にて食事となりました。
この食事の場こそ、本音が出るものですねー。
「リカルテ将軍はあまりに単純すぎる」
「ラモスは御粗末でフィリピン政府の官に着かせるべき人物でない。」
などなど。
憲兵問題に入った時に、村田大使が、
「先日アキノのところにお米を貰いにきた乞食に対し、日本の憲兵が乞食の
名前と住所と職業をわざわざ聞いた」という話を笑い話としてだしました。
お米もない乞食に、四角四面に名前と住所と職業を聞く辺り、なんだか今の日本の貧困層で
起こっている日常を浮かべてしまいます。
貧困だからお米を持つ比島要人のところに来ているだけの乞食なのに、
その乞食が何者か?と目くじらを立てる日本人。
今でもそうだから変わっていないと溜息です(個人的に)。
この食事の席にいたのが、村田省蔵大使、山下大将、武藤章中将、宇都宮直賢参謀副長でした
(あと副官たち)
この食事の席で、またも、山下大将は、宇都宮直賢参謀副長に対し
「よくこの三年ばかりの間に匪賊をこんなに作ってくれたな」と皮肉を飛ばしました。
それに対し、宇都宮直賢参謀副長に変わって答えたのが村田大使でした。
曰く
「田中(静壹。陸士19期、陸大28期。田中光祐少佐参謀の父)軍司令官の在任中(1942/8/1-1943/5/18)の後半期から、日本側がフィリピンのゲリラ討伐に熱を入れるようになった。
第十四軍(当時)がそのために増援を依頼するも、陸軍中央部は耳を貸さなかったし、
日本のやり方がかえってゲリラを作った事例も多々あるし、ゲリラの中にはフィリピン政府の高官だった人も含まれている。
彼らが今米軍が再度来襲してくるという事実を前に、自分たちの立場が変わる希望をもって
勢力を拡大しているのだ」と
その通り、田中靜壹司令官後半期にゲリラ討伐をしだして、司令官自身が高熱を発して
生死を彷徨いながら日本に帰還したというのがあったので、
その後任者である黒田重徳司令官は、あえて、ゲリラ討伐をしない方針を取っていたのでした。
少しでもフィリピン人の心を掴もうと努力をしたのですが、結局どうにもならず、
山下大将の現在となったのですが。
では黒田重徳中将の立場だったら、どうすればよかったのでしょうか?
これ難問ですね・・・。
中央に増援を求めても増援はない。フィリピン人が日本に対する見方は厳しい・・・。
黒田重徳司令官の実績としては、
「独立国としてのフィリピンはどうすべきか」と調査機関を設けたり、
フィリピンが憲法を制定する際、
日本が大日本帝国憲法を手本にした憲法を制定させようと指導した際に、反対したことだと思います。
「比島人はアメリカは自分たちに善政を施してくれたと思っているし、実際はアメリカはフィリピンをさほど虐めていなかったから、アメリカ式の憲法であるべき」と。
宇都宮直賢『南十字星を望みつつ』私家版 1982年
この日の最後、村田省蔵大使は一つの提案をします。
「ラウレル大統領と武藤参謀長が出来るだけ親しくすること」
これは今後、どうなるのでしょう・・・。楽しみですね・・・。
今回は、黒田重徳司令官の写真を見出しにしてみました。
黒田重徳司令官の立場だったら、どうしたらよかったのでしょうか?
黒田重徳司令官を悪くいうのは簡単だけど。
黒田重徳司令官は、結果として和知鷹二中将など部下たちの意見が寺内寿一元帥に出されて、
それが中央に届いてはいたけれど、中央は黒田重徳司令官を放置していたのです。
黒田重徳司令官から山下大将に変わる時に、敢て米軍上陸時に何もしらない
山下大将を満洲から異動させるやり方は結果として不幸を招きました。
それで黒田重徳司令官の軍務放棄?とみられる行動をあげて、「だから後任の山下大将と
比島の日本軍将兵が苦労したのだ」でも足りないのではないかと最近思います。
司令官個人の責任だけではなく、中央部の怠慢もまた反省すべき点だと思います。
コメント
このブログにコメントするにはログインが必要です。
さんログアウト
この記事には許可ユーザしかコメントができません。