前回のエントリーで、山下軍司令官から直接
「内地へ帰ってもらうがいいか!」と言い渡された宇都宮直賢参謀副長から
その状況を聞いた村田大使は、
11月16日(木)の日記に
「第十四軍の現在の政務方面には理解すら欠き、机上の立案をよろこぶ軍人多く困り居る」
「軍人は得て政務の秘密には無頓着で極秘の事が彼等の口より洩れるので閉口してをる」
と書いています。
なお当時は山下大将の軍は、「第十四方面軍」が正しいですが、村田大使がフィリピンに来たときが
まだ第十四軍の時代だったのもあり、本間雅晴中将が初代司令官を務めたフィリピンにおける日本軍最高軍を第十四軍のままで表記しているのでしょう。
第十四方面軍、机上の立案を喜んではいなかったとは思うけれど、
昭和17年9月からフィリピンに駐在していた宇都宮直賢参謀副長の経験を活かす気持ちは
皆無であったのは残念ながら事実でしょう。
山下大将が、子飼いの参謀・西村参謀副長の話ばかりに耳を傾けていて
山下大将も武藤章中将も、この時はまだ宇都宮参謀副長の話を聴かないということも
部下たちに与えた影響が大きかったに違いありません。
11月18日(土)の日記には
村田大使を浜本正勝(武藤章中将によると、「ラウレル大統領の顧問のような、通訳のような存在」)
が訪問してきて、ラウレル大統領が不機嫌であると報告してきました。
日本の憲兵を大統領初め要人につけることは宇都宮参謀副長より聞くも、
大統領にはただ、聞いたぐらいでしかなかったので、
米軍の空襲後、正式な通達があって憲兵が付くのだと思っていたら
すぐ憲兵が来たので、大臣連が驚いたとのこと。
中には「部屋を開けろ」と無作法な憲兵とトラブルにもなったとのこと。
村田大使は、浜本に対し、「日本の立場として言えば、言語風土土地の事情がわかっていない日本の将兵がフィリピンの防衛のために来ているのだから、少しのことは勘弁してほしい。日本の将兵もただ殴っているのではない。何かフィリピン人側が彼らを怒らせることもしたのではないか。
現にこれだけ若い兵士がいて、女子供が少しも外出を恐れないで歩いているのは強姦沙汰がないからだ。それぐらい軍の規律がやかましいという証左だ。
フィリピン人は他人事のように日本人を非難するけれど、自分のことではないか」と伝えてくれと
言っています。
またこの時、前回エントリーでも触れた愛国連盟の話も出ています。
愛国連盟については、リカルテ、ラモス、デュランがラウレル大統領を訪問し、連盟を作りたいと
申し出たので、ラウレル大統領も同意したということを、村田大使は、浜本正勝から聞いたのでした。
11月19日(日)の日誌には、
山下大将と武藤参謀長が、ラウレル大統領に挨拶と夕食をするためにやってきた記載があります。
この日は小さいものの
最初は日本側、フィリピン側とも相互演説なしの約束だったのに、山下大将側が
「フィリピンは独立後未だ一年余りの幼稚な国家なれど、我々は大統領とともに、フィリピンを立派な国に育ちあげるため懸命の努力をする」などと挨拶をする一面がありました。
フィリピンと日本側は何かと緊張したやり取りが続いています・・・。
そして遂に、11月23日(木)の日誌には
村田大使のもとに、田尻愛義(たじり あきよし)公使がやってきて、
「第十四方面軍が、ガナップ党のラモスをリーダーとして
六万人の義勇軍をつくらせようとしている件。
今日レクト(外相)から来訪を求められたけど、どうやら、現在のフィリピン政府と独立した形で、
ガナップ党のラモスが権力を握ろうとする動きがあり
これを放置していたら、日本でいう二・二六事件のようなものに発展する」と言っていました。
レクト外相としては、第十四方面軍がラモスらを傭兵にしてくれるなら、ラモスが首脳になろうと、
次善の策としては良いのだけどというのでした。
山下大将も、武藤章中将も、日本の二・二六事件だけで相当懲りているはずですが、
まさかフィリピン戦中にもこのような困難に巻き込まれるとは・・・。
村田大使は、明日武藤参謀長に直接会って話すことを決断しました。
第十四方面軍の新参者の態度がラウレル大統領政権を動揺させるのであれば、
それはこれまでの自分たちの方針に反するので、田尻公使も、武藤参謀長とよく面談しなさいと
それでもだめならば
私は山下軍司令官に面談する。
それでもだめならば、私は今日まで天皇陛下の命によりやってきたことが裏切られて、
大日本帝国を代表してラウレル大統領に公言してきたことが反故になるをもって
適当の態度をとると、遂に決意しました。
フィリピン政府を守るために、新参者の山下大将率いる第十四方面軍にも苦言を直接呈するし、
それで効果ないなら私はそれなりの態度をとると。
11月24日(金)には田尻公使が村田大使の昨日の強い決意を受けて
早朝に第十四方面軍の武藤参謀長を訪ねて
軍が独自にラモスに対し義勇軍を編成するという噂があることを質しました。
武藤参謀長は否定し、あくまでリカルテ将軍を首脳として作らせるつもりで、
ラウレル大統領を顧問的なものとし連絡を取らせるものだけど、まだ案すら出来ていない。
ラモスに対しては日本軍に対する労力を出してくれと交渉しているだけというだけでした。
憲兵隊がフィリピン政府の高官につけるなどによるトラブルに対しては
参謀長である自分が命令したと、明らかに認めました。
田尻公使は武藤参謀長に対し
「最近軍側がフィリピン政府高官を検挙する際、事前にラウレル大統領にするという約束を
破っているので、ラウレル大統領の気分が悪い」というと
武藤参謀長は、「よく分かった。それでは局長以上ぐらいにでついては扱いを改めるか」と相談口調でもあったとのことでした。
さらに、第十四方面軍として、ラウレル大統領に対して何も注文なく、フィリピン政府は日本軍に協力するにしても無力なので、何かラウレル大統領率いるフィリピン政府に要求を出してほしいということも武藤参謀長に伝えました。
武藤参謀長からも、「山下大将も私も、村田大使の来訪を希望している」という話も出たのでした。
山下大将率いる第十四方面軍と、村田大使率いるラウレル大統領側とは、まだ壁があるものの、
少しは話が通じそうな様子も見られながら、
予断を許さないものがあったのが、この1944(昭和19)年11月でした。
なお、この11月24日の村田省蔵『比島日記』には
山下大将の怪我の話が出ています。
田尻公使が、「山下軍司令官の体調は如何か」と武藤に聞くや
武藤は、「軍司令官は健康です」と答えています。
実際は、怪我したうえに、頑張って海軍側の宴会に出て、お酒まで飲んで・・・。
それでも大丈夫だったんでしょうかね。
そして武藤章中将は自分が衆人前で怒鳴られたことなど気にもしてなかったようですね・・・。
それ以上の懸案事項が山積み過ぎて・・・。
「内地へ帰ってもらうがいいか!」と言い渡された宇都宮直賢参謀副長から
その状況を聞いた村田大使は、
11月16日(木)の日記に
「第十四軍の現在の政務方面には理解すら欠き、机上の立案をよろこぶ軍人多く困り居る」
「軍人は得て政務の秘密には無頓着で極秘の事が彼等の口より洩れるので閉口してをる」
と書いています。
なお当時は山下大将の軍は、「第十四方面軍」が正しいですが、村田大使がフィリピンに来たときが
まだ第十四軍の時代だったのもあり、本間雅晴中将が初代司令官を務めたフィリピンにおける日本軍最高軍を第十四軍のままで表記しているのでしょう。
第十四方面軍、机上の立案を喜んではいなかったとは思うけれど、
昭和17年9月からフィリピンに駐在していた宇都宮直賢参謀副長の経験を活かす気持ちは
皆無であったのは残念ながら事実でしょう。
山下大将が、子飼いの参謀・西村参謀副長の話ばかりに耳を傾けていて
山下大将も武藤章中将も、この時はまだ宇都宮参謀副長の話を聴かないということも
部下たちに与えた影響が大きかったに違いありません。
11月18日(土)の日記には
村田大使を浜本正勝(武藤章中将によると、「ラウレル大統領の顧問のような、通訳のような存在」)
が訪問してきて、ラウレル大統領が不機嫌であると報告してきました。
日本の憲兵を大統領初め要人につけることは宇都宮参謀副長より聞くも、
大統領にはただ、聞いたぐらいでしかなかったので、
米軍の空襲後、正式な通達があって憲兵が付くのだと思っていたら
すぐ憲兵が来たので、大臣連が驚いたとのこと。
中には「部屋を開けろ」と無作法な憲兵とトラブルにもなったとのこと。
村田大使は、浜本に対し、「日本の立場として言えば、言語風土土地の事情がわかっていない日本の将兵がフィリピンの防衛のために来ているのだから、少しのことは勘弁してほしい。日本の将兵もただ殴っているのではない。何かフィリピン人側が彼らを怒らせることもしたのではないか。
現にこれだけ若い兵士がいて、女子供が少しも外出を恐れないで歩いているのは強姦沙汰がないからだ。それぐらい軍の規律がやかましいという証左だ。
フィリピン人は他人事のように日本人を非難するけれど、自分のことではないか」と伝えてくれと
言っています。
またこの時、前回エントリーでも触れた愛国連盟の話も出ています。
愛国連盟については、リカルテ、ラモス、デュランがラウレル大統領を訪問し、連盟を作りたいと
申し出たので、ラウレル大統領も同意したということを、村田大使は、浜本正勝から聞いたのでした。
11月19日(日)の日誌には、
山下大将と武藤参謀長が、ラウレル大統領に挨拶と夕食をするためにやってきた記載があります。
この日は小さいものの
最初は日本側、フィリピン側とも相互演説なしの約束だったのに、山下大将側が
「フィリピンは独立後未だ一年余りの幼稚な国家なれど、我々は大統領とともに、フィリピンを立派な国に育ちあげるため懸命の努力をする」などと挨拶をする一面がありました。
フィリピンと日本側は何かと緊張したやり取りが続いています・・・。
そして遂に、11月23日(木)の日誌には
村田大使のもとに、田尻愛義(たじり あきよし)公使がやってきて、
「第十四方面軍が、ガナップ党のラモスをリーダーとして
六万人の義勇軍をつくらせようとしている件。
今日レクト(外相)から来訪を求められたけど、どうやら、現在のフィリピン政府と独立した形で、
ガナップ党のラモスが権力を握ろうとする動きがあり
これを放置していたら、日本でいう二・二六事件のようなものに発展する」と言っていました。
レクト外相としては、第十四方面軍がラモスらを傭兵にしてくれるなら、ラモスが首脳になろうと、
次善の策としては良いのだけどというのでした。
山下大将も、武藤章中将も、日本の二・二六事件だけで相当懲りているはずですが、
まさかフィリピン戦中にもこのような困難に巻き込まれるとは・・・。
村田大使は、明日武藤参謀長に直接会って話すことを決断しました。
第十四方面軍の新参者の態度がラウレル大統領政権を動揺させるのであれば、
それはこれまでの自分たちの方針に反するので、田尻公使も、武藤参謀長とよく面談しなさいと
それでもだめならば
私は山下軍司令官に面談する。
それでもだめならば、私は今日まで天皇陛下の命によりやってきたことが裏切られて、
大日本帝国を代表してラウレル大統領に公言してきたことが反故になるをもって
適当の態度をとると、遂に決意しました。
フィリピン政府を守るために、新参者の山下大将率いる第十四方面軍にも苦言を直接呈するし、
それで効果ないなら私はそれなりの態度をとると。
11月24日(金)には田尻公使が村田大使の昨日の強い決意を受けて
早朝に第十四方面軍の武藤参謀長を訪ねて
軍が独自にラモスに対し義勇軍を編成するという噂があることを質しました。
武藤参謀長は否定し、あくまでリカルテ将軍を首脳として作らせるつもりで、
ラウレル大統領を顧問的なものとし連絡を取らせるものだけど、まだ案すら出来ていない。
ラモスに対しては日本軍に対する労力を出してくれと交渉しているだけというだけでした。
憲兵隊がフィリピン政府の高官につけるなどによるトラブルに対しては
参謀長である自分が命令したと、明らかに認めました。
田尻公使は武藤参謀長に対し
「最近軍側がフィリピン政府高官を検挙する際、事前にラウレル大統領にするという約束を
破っているので、ラウレル大統領の気分が悪い」というと
武藤参謀長は、「よく分かった。それでは局長以上ぐらいにでついては扱いを改めるか」と相談口調でもあったとのことでした。
さらに、第十四方面軍として、ラウレル大統領に対して何も注文なく、フィリピン政府は日本軍に協力するにしても無力なので、何かラウレル大統領率いるフィリピン政府に要求を出してほしいということも武藤参謀長に伝えました。
武藤参謀長からも、「山下大将も私も、村田大使の来訪を希望している」という話も出たのでした。
山下大将率いる第十四方面軍と、村田大使率いるラウレル大統領側とは、まだ壁があるものの、
少しは話が通じそうな様子も見られながら、
予断を許さないものがあったのが、この1944(昭和19)年11月でした。
なお、この11月24日の村田省蔵『比島日記』には
山下大将の怪我の話が出ています。
田尻公使が、「山下軍司令官の体調は如何か」と武藤に聞くや
武藤は、「軍司令官は健康です」と答えています。
実際は、怪我したうえに、頑張って海軍側の宴会に出て、お酒まで飲んで・・・。
それでも大丈夫だったんでしょうかね。
そして武藤章中将は自分が衆人前で怒鳴られたことなど気にもしてなかったようですね・・・。
それ以上の懸案事項が山積み過ぎて・・・。
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